PD会報1-1

『創刊号』の発行にあたり一言
会長 田子 治
「富山県パーキンソン病友の 会」の第一回創刊に当り、一言ご挨拶もうし上げます。友の会 設立に当り事務局の中川みさこさん、吉沢幸子さんはじめ他の 役員、賛同して下さった県内の 医師や報道関係者の皆さんに心 より感謝申し上げます。今度新会長を拝命し、病気で苦しむ患者、家族の方たちに「風通し良く、オープンで、分かりやすく、決定は迅速に行えるように」頑張ろうと思います。 自分はパーキンソン病と脊髄小脳変性症という二つの神経難病を持っております。特定疾患に認定されたのは平成十三年一月だったと思います。それまでは仕事で国内外を問わず 社会の第一線で活躍してきました。又、遊ぶほうはスキーが 一級、ゴルフは一年半位でHC十五と抜群の運動神経を発 してきました。それが病気になって体が思うように動かなくなり、これで我が人生も終わりと思い凄く落ち込みうつ状態になり二回自殺を図りました。幸か不幸か二回とも助けられ、良くも悪くも家族の今までの接し方が変わってきた様に思います。でも病気のお陰で、凄く尊敬できる主治医の上田先生(高岡サティ内病院)やそのスタッフの方たち、親切な保健士さ んやボランティ尊敬アで行っている精神障害者の共同作業所の指事員の方たちやそこのメンバーの皆さんの温かい眼差しを受 けながら頑張っております。今まで仕事での付き合いそ仲良 くやってきた人たら、良くも悪くも半々になり、その分病気 になってから出会った人々の方が心を開きやすく、なお幸せ に思っております。女房の仕事であった炊事、洗濯、掃除な どを生きがいに励んでいます。また、この四月からこの会の発足に当りこれも頑張ろうと 思います。ここで神経難病患者やその家族の皆さん、今度の 会は「何をしてくれるのかな」とただ期待するのではなく、あなたも「自分に何ができるだろうか」とまず一歩踏み出し 参加してください。共に歩みましょう。皆、病気を持ってい る人たちばかりです。自分も患者の一人ですが、精神障害者 の共同作室所でメンバーや指導員の方たちと一緒に作業したり、自分の出来る範囲でなるべく健常者と肩を並べる様に頑張っています。この会の発足にあたり、全国のパーキン 病欠の会の活動や歴史など詳しいことは追々勉強していくつもりです。この病気を受け入れて優しさを全面にだして、皆様患者家族のために働きたいと思っております。これからも、よろしくお願いします。 
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パーキンソン病友の会の設立について
副会長 古川 久信
今年はまた、格別な寒く厳しい日々が続きましたが、ようやく梅 の便りも聞かれる今日この頃でございましょうか。 このたび、友の会設立について、同じ病気を持つ皆様方と友の話し 合い、情報の交換などをおこない、相互の認識することにより現在自分の病気の進行を理解することができ、自分より以上に重く、苦しい中でがんばっておられる方々が 県下にたくさんおられることもわかり、同病の皆様方と話し合うことによって、元気をいただいているような今日この頃でございます。実は、私も特定疾患に指定されております難病で、潰瘍性大腸炎を悪い十八年間治療をいたしておりまして、現在も四種類の薬を飲み続けております。その上、四年ほど前よりパーキンソンであると医師より診断され現在は、手の振戦、麻痺、固縮、筋肉の痛みと様々な で苦しんでいる毎日ですが、失望から毎日飲む四種類の薬も潰瘍性大腸炎 の薬と合わせますと、これでよいのだろう 「副作用」と、気になり不安の事も多い反面、自分より以上に病と戦っておられる方々の多いことを思い出してほ 我に返り頑張らなければと思う毎日で御座います。この、パーキンソンの病気のほうは、特定疾患の認定はありません。今しばらく様子を見ることにして、担当医の先生を信頼し て治療に専念したいと思っております。会員同士の情報交換 や、担当医の御指導に従って病気といかに仲良く付き合い、 来年の今頃に現在のような、状況でおられれば「よし」とし なければならないと思っております。「セルフメディケイション」つまり自分の病気は自分で 良くするという話の様に、頑張って参りたいと思っております。人生には、リハーサルは無いのだから、皆様方と共に、頑 張ろうではありませんか。尚、この会の立ち上がりに対し、日夜私情を捨てて努力を 頂きました方々に対し、心から感謝の意を表し、今後引き続 き活躍をお願いし御礼を申し上げるものでございます。
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「友の会の設立によせて」
砺波市 さかした医院 坂下 泰雄先生
 今年の2月初めに、富山県パーキンソン病友の会の世話人 のおひとりである中川みさこさんが、数人のパーキンソン病 患者さんを引き連れて当院を訪問されました。会設立が大詰 めを迎えている時期で、そのための儀礼的な訪問かなと思い ました。しかし、そうではありませんでした。初回の会報に 載せる文を書くようにといわれたのです。なぜ私が選ばれた のかたずねると、若手の医師から選んだといわれました。私 は若手ではないので当然固辞したかったのですが、中川さん からの依頼はいうなれば、命令です。若手としては服従以 外の道はなく、こうして書いているわけです。望んだわけでもないのにパーキンソン病とお付き合いする ことになってしまったみなさんは、病気について聞きたいこ とを、担当の医師にきちんと聞けているでしょうか。医療機関を受診すると、診察室に順番に呼び込まれて診察を受けます。診察室に入る前には、こんなことを聞いてみたい、あれ はどうすればいいのだろうかなどの多くの質問や疑問があっ ても、診察室に入ったとたんに言いそびれてしまう。たぶん ・そうでしょう。私だって、自分が病気になると、その専門の 医師に聞きたいことはたくさんあります。でも、言い出せないのです。医師が診察室で待ち、患者がそこへ入ってくる。この時点で医師が主で、患者が従の関係ができあがってしまいがちです。だから聞きにくいのです。では、どうすればいいのでしょうか。そうです。診察室を抜け出せばいいのです。抜け出すことによって、診察室を舞台にした主従関係は成り立たなくなります。さらに、患者が 一人より二人、二人より三人と集まれば集まるほど今までの 主従関係が壊れて、逆に患者側の立場が強くなります。昨年 末に県立中央病院に集まった患者とその家族、支えるボラン ティアのエネルギーを思い出してください。あの場には私を 含めて数名の医師がいました。そのみんなが、会場の熱気に圧倒されていたのです。 パーキンソン病は次々といい薬が開発され ています。薬を 正しく選択し、慎重に使えば長期にわたり症状が改善される ようになりました。しかし、残念ながら、いまだ根治する病 ではありません。歩きにくい、動きが遅い、手足がふるえるといった症状がなかなか完全にはなくなりません。パーキン ソン病について、皆さんが多くの知識を得ることができれば、 自分の悩みを正確に主治医に伝えることができます。また、 パーキンソン病患者を担当している医師は、その質問に的確 に答える義務があります。医師側もパーキンソン病を扱う神経内科の専門医として、自分の知識のレベルアップを常に求 められているのです。締めくくりに、「この会のますますのご発展を願っております」と書こうと思ったのですが、やめました。バーキンソ ン病に限らず、難病の友の会というものがあります。同じ病 に悩む方々が集まり、話し合い、助け合い、励ましあう会です。以前、ある先生はこのような会は圧力団体のようなものだといいました。圧力団体とは、穏やかではありません。で も、患者が集まり、疑問を解消し、知りたいことを知り、同病の人たちと語り合う。このような会があれば、自宅から。 あるいは診察室から飛び出す機会になるに違いありません。 そういった意味で「発展を願う」のではなくて、この会にか かわるすべてのメンバーで、触発しあい自らが発展していく そんな活動的な会を作っていきましょう。患者側も医療側も パーキンソン病患者がより快適にすごすことができるように はどうすればよいかを考えながら、互いに心地よい。圧力” を掛け合いましょう。みんなで、この富山県パーキンソン病 友の会を立派な圧力団体にしようではありませんか。
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「富山県パーキンソン病友の会」設立に寄せて
黒部市民病院 新井 裕一 先生
 富山県パーキンソン病友の会が設立されることを心よりお 祝い申し上げます。私自身準備委員のメンバーでありながら、 なかなか都合がつかずご協力できなかったことを深くお飩び 申し上げます。私が医師になって二十年余りがたちますが、この間医学の 進歩には目覚しいものがあり、それは神経内科領域でも同様 です。病気の原因にせまる研究や治療法の進歩など多くの成 果があります。卒業の時、同級生から「診断だけで治療のな い科を選ぶなんて」と言われたことがありますが、当時と比 べれば治療ひとつとっても格段の差があります。私自身、学生の頃は治療よりも神経診断学の面白さに魅せ られ、また長崎大学より赴任されたばかりの高守教授の人柄 にひかれ神経内科を選んだのですが、いざ入局してみると思 者さんは脊髄小脳変性症や筋萎縮性側索硬化症といった神経 難病の方が多く、診断がつくとそこから先は??といった状 態でした。そうした中で、パーキンソン病はある程度治療法 が確立されており、ドーパミンを主体とした治療(当時使用 できたのは、抗コリン薬、シンメトレル、ドーパミン製剤で ドーパミン受容体刺激薬としてはバーロデルのみ使用可能でした)を行うと症状が改善し、患者さんから感謝の言葉をい ただける数少ない病気でした。ただ当時すでにドーパミンの 長期投与による症状の日内変動や不随意運動といった問題は 存在し、そうした方の治療に頭を悩ませていたのも事実です。 今日では使用できる薬剤も増え、また先般日本神経学会か ら治療ガイドラインも公表され、以前より治療がしやすくな りましたが、個々の患者さんでは症状も異なり生活環境も違 うわけで、最終的には主治医が患者さんの状態をきちんと把 握して薬の調節をすることにかかると思います。そのために は主治医と患者さんとの密なコミュニケーションが大切です。 患者さんとのコミュニケーションということで思い出され る側があります。六十歳前後の女性の方でしたが、しばしば 予約日前に薬が足りなくなったといってご家族が外来に来ら れていました。その方が体調を崩されて脱水状態になり入院 することになりました。入院後カルテの処方どおりに薬を出 していたのですが、二日くらいすると四十度近い高熱が出て下がらなくなり、全身の筋肉が硬直したような状態になりま した。悪性症候群の症状でした。ご家族に聞くと、患者さん は社交的な方で外出する時には薬の効果がきれるといけない と思い、必ず普段より余計に薬を服用していたとのことでし た。ですから入院後薬の量が相対的に少なくなり、悪性症候 群を発症したわけです。幸い補液や薬の量の再調整によって 患者さんは快方に向かいましたが、患者さんとのコミュニケーションの大切さを教えられた出来事でした。最後に私にとって印象深い言葉をひとつ紹介したいと思い ます。学生時代、当時鹿児島大学第3内科の教授であった井形昭弘先生が特別講義にこられたことがありました。桜島を パックにしたスライドを示しながら「第3内科は3内と略されます。人は3ないと言っています。要するに神経内科の病 気はわからない、治らないというわけです。でももう一つのないはあきらめないだと思っています。」と言われたのが今で も心に残っています。これからもこの言葉を胸に、患者さんの助けになればと願 いながら診療を続けていきたいと思っています。今後、富山 黒パーキンソン病友の会がますます発展していかれることをお祈りしながら、拙文を終わりたいと思います。
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友の会に寄せる
黒部市 木島 律子
富山県に友の会を作りたいんです!電話の向こうの声は 力強く耳に飛び込んできました。熱っぽく語る中川さんに私 は手を合わせる思いでした。私の母の様子がおかしいと思ったのは1994年6月、肺 炎の父が数回目の危篤状態を繰り返している時です。まるで 中遊休をしているかのようなゆっくりでフワァーとした歩 き方に、私はこれから始まる道のりへの不安を漠然と感じて いました。父はその翌月に他界し、母は徐々に体の不調を訴 えるようになっていきます。左足の振戦、姿勢の保持ができない、振り向くとふらつく激しい動作も伴い、一日中つらいつらいとまるで何かに取り付かれでもしているかのような説明のつかない状態はうつ症状を引き起こして、友だちからも逃げ回るようになりました。 このときの、病名さえ判れば治療できるのに、と言う思い はやがて打ちのめされます。さまざまな検査のあとにもらっ たパーキンソン病という病名を受け入れるにはかなりの時間 が必要でした。難病としか知識がない私が調べた医学書には 10年ほどで死にいたると書いたものまでありました。よほど 古いものを見たのでしょうね。そんな時、モハメド・アリが アトランタオリンピックの聖火台に立ったのです。「パーキンソン病と戦う彼の姿は世界の病める人々に元気と勇気を与えた。」と言うアナウンサーの声。しかし、私には励まされる どころか、これほどの人でもなおすことができないのかと彼 の痛々しい姿に絶望したものです。知りうる情報はほとんど ありませんでした。しかし、1999年暮れに娘がパソコンを購入、インター ネットで友の会の存在を知り、大阪支部の近藤さんと連絡が とれました。 そのときの喜びは 言い表し ようがありません。症状の一つ一つ、日常の生活の具合、薬のこと、困っていることなど、 電話で堰を切ったようにあれこれ尋ねる私に近藤さんは一つ 一つ丁寧に答えてくださいました。そして近藤さんの大きな 励ましによって翌春、一番の懸案事項である娘の結婚式に母 が出席できたのです。手探りの間から抜け出た思いでした。 もちろん友の会大阪支部に入会、その年の新潟全国大会にも 出かけました。母以外にはじめて会うパーキンソン病の患者 さんたちは歩き方も震え方もそっくりそのまま、母だけじゃ ないこんなにたくさんの仲間が、分かり合える人たちがいる んだーと思ったらすうっと胸のつかえがとれました。患者さ ん、介護者はもちろんのこと、新潟に友の会を立ち上げるた めに汗を流した方ともお話しました。無理をしてでも母と一 緒に来るべきであったと悔やまれましたが、この日を境にパ ーキンソン病を前向きに見つめられるようになったのはおおきな収穫でした。患者の体験談としてお話なさった大塚さんにも感銘を受けました。会場で販売されていた関係図書も持たれるだけ買い込み、むさぼり読みました。難病の中では格段に、研究や薬の開発 が進んでいること、少数の人に罹患する特異な病ではすでに なくなっていることなど、いろいろなことが判ってきました。 友の会の会報も楽しみになりました。もう得体の知れない病 ではありません。母も私も外に向かって私は、「母は、パーキ ンソン病の患者です。」と、言えるようになりました。気持ち に受け入れるゆとりができたのです。母と同居するお嫁さんも病を理解するために大阪まで出か け友の会に出席してくれました。インターネットの掲示板も、「介護者としての私にたくさんの知恵や情報、励ましを与えて くれストレスを解消してくれる場所でした。そして、昨年の9月、なんと母は大阪友の会に出席できた のです。もちろん発利後も家族旅行やドライブで遠出するな ど出かけてはいるのですが、いつも心配が先にたって前日か ら体調をくずしてしまい、まわりじゅうが振り回されて、外 出は大変なことだったのです。ただ、それまで1日に10数回あった頻尿が半分ぐらいに軽 蔵されていたため、なんとかなると判断、どうしても同じ利 で頑張っている人たちに会わせたい一心で誘いました。母も行きたいといいます。大阪にも連絡しました。私の息 子が同行してくれると言います。決めてしまったら私のほう が心配になってきました。軽減されたとは言えON・OFFす。中川さんの熱意で産声をあげた富山県の友の会は私たち 仲間の場です。みんなですばらしい会に育てていきたいもの です。が激しくOFFになったらトイレは15分ほどしか持たない こともある。車ではトイレがままならない。列車ならいつで もできるが、すくみ足、固縮が始まったらどうやってあの狭い列車内で用足しができようか。当日の朝まで迷いあぐねた に息子の力強い言葉―「おれがおんぶでも抱っこでもして連れて行ってやる」―その一言でJRに飛び乗りました。結果としてそれがよかったのでしょう。母は実に快適に列車の旅を楽しんだのです。車椅子を使う時間も思ったよりも短く、母は孫の頼もしさに安心して体を預けられたようです。
そうして実現した友の会の出席は、母の心も強くしたようです。自分だけがつらいのではないことを実感した母はより積極的に体を動かすようになり、明るくなりました。友の 会効果はある程度予測できていたとはいえ、ほんとにうれしいものでした。今、自分たちの足元に友の会ができました。切望していた友の会です。母や私が救われたように、会の活動は県内の悩んでいる人たちの力となることでしょう。医学の進歩はそう遠くない日にパーキンソン病を確実に治る病にしてくれるはずです。それを応援する意味でも会の存在は必要でしょうし、関連する情報を提供することも可能です。
そして何より、現在この日を過ごす私たちが、自分を患者を介護者をいとおしめるように、パーキンソン病と上手に付 き合っていけるために、友の会の役割は重要であると思います。中川さんの熱意で産声をあげた富山県の友の会は私たち 仲間の場です。みんなですばらしい会に育てていきたいものです。